グリーン車の車窓から母は何を見た


 

組織の理不尽な部分や人間関係に対する疲れみたいなものが蓄積してきたのは、社会人になってから数年経った頃。振り返ってみると、社会人1年目の右も左もわからぬ頃は気楽なものだったな、などと思いながら、帰省の際にグリーン車に乗ってみたもその頃でした。とにかく疲れていて、少しでも優雅な気分になりたいと思ったことがきっかけでしたが、それ以来ずっと帰省に限ってはグリーン車に乗るようになりました。そのくらい気に入ったのです。静かで広々とした車内から見る風景。旅のお供に持ってきていた小説は結局一度も開くことがありませんでした。ささくれだった心に染み込むささやかな贅沢こそが、グリーン車での旅が与えてくれたものでした。
この贅沢は、特に誰にも話したことはありませんでしたが、最後に帰省した2020年の年明けに両親と話していたら、その流れの中でふとしたことがきっかけで知られてしまいました。
「高くてもいいの。あの幸せな時間を買えるなら惜しくない」
すると母が懐かしそうにこういうのです。

「あなたが中学校を卒業する年の冬、二人で関西に旅行したでしょ?あの時乗った特急は、実はグリーン車だったんだ。あなたには違いがわからなかったかなぁ」

旅行したことはよく覚えています。真冬の荒れた日本海沿いを特急で4時間くらい走ったでしょうか。そして15歳だった自分は「旅行の時くらい明るい太平洋側を走りたかったな・・・」と舌打ちしたい気分だったことを思い出しましたが、グリーン車の旅の心地よさなど知る由もありませんでした。当時の私には癒される必要などなく、時間の価値もわからなかったのですから。

N700 Shinkansen Green Car


母から二人で一緒に乗ったのがグリーン車だったという話を聞いたことで、しばらく私は母の人生について考えることになりました。母娘で乗ったあの特急が我が家の最寄り駅を出発する時に感じたであろう母の高揚感。「あの家から離れられる」それだけでよかったんじゃないかな、なんて。閉鎖的な農村に嫁いだ頃、母はまだ若かった。愛し合っていればなんでも乗り越えられると思っていたのではないだろうか・・・だけどいざ結婚してみると、豪農になり損ねた見栄っ張りな家の嫁の生活は、思い描いていたものとは随分違ったはず。母娘二人旅、行先なんてどこでもよかったのではないか。あの家の嫁という立場から解放されるのであれば、どこでもよかったのか。
金沢に到着した時に母が駅弁を買ったことを思い出しました。駅弁という気分ではなく、温かい食事がしたいと思った私の横で嬉しそうに美しい駅弁を眺めて食べる母。そうやってどんどん家から遠ざかることでどれほど母が心の平和を得ていたか、当時の私には想像もつかなかったけど、自分がグリーン車に乗って幸せな時間に浸るという経験をしてみると、あの束の間の幸せがどれほど母にとって価値あるものだったのかわかるようになりました。そしてまたいつかその特急に乗って、母と日本海を眺めながら旅に出たいと思ったものの、その特急はもう廃止されてしまいました。
でももうよいのです。母が数年前こういいました。「以前はね、こうしてあなたに会いに来て刺激や娯楽の多い都会で遊んだ後に田舎に帰る時、憂鬱だったの。でももうそんな風に感じることもなくなった」
義理の両親が亡くなり、長男の嫁としての務めがようやく終わったのです。 
私達三人の子育て、そして義理の両親の介護、お疲れさまでした。コロナウイルスの感染拡大の恐れがなくなった頃、また一緒にグリーン車に乗って旅に出ましょう。

cantfoolme.hatenablog.com

cantfoolme.hatenablog.com