文才がないやつは毒を吐くな、とナンシー関さんに叱られそう


言霊という言葉をよく聞きます。良い言葉を発すれば良い作用が起きて、悪い言葉を使えばその逆で・・・・という事象ですが、悪い言葉を吐かずにはいられない人達もいます。

世の中には毒を欲している人がいます。
これは自分の中にもともとある毒素を吐き出したいのではなく、毒素を精製するものをよそから借りてきて、あえて自分の中で毒を生成し(作らなくてもいいのにね)、それを吐き出すというプロセスを必要としている人達のことです。

例えば自分が嫌いなタイプの人にわざわざ近づいていって後から「あの人ってさぁ・・・」と言う。面白くないといいながらTVをつけて「最近のTVって」と文句を言う。
こういう人が例えばあなたに寄生したとします。そしてあなたはその人をブロックする。するとその毒を欲している人は新たな宿主をいとも簡単に見つけてしまいます。そしてそこから養分を吸い取って毒を生成して吐き出す。
生産的とも有意義ともいえませんが、どうしてもこのプロセスを必要としている人達が世の中に存在することは確かです。負のオーラを撒き散らしていることに気がつかずに、たらたらとこのプロセスを続ける人達。

だけどこの毒をエンターテイメントにしてしまった人がいます。ナンシー関さんです。


この椅子に座って一日15時間(!)TVを見ては新たなネタを探していたナンシー関さん。仕事の一部として見るTVってどんな感じなのかなぁ。面白いのかなぁ。
彼女のご両親は「人の悪口を書くことを生業にするなんて・・・・」とおっしゃっていたそうです。彼女の芸能人批評は確かに辛口でしたから、自分に矛先が向けられた芸能人は傷ついたでしょう。デーブ・スペクターさんは反撃してましたしね。
矛先が向いていない一般人は「わかるわかる!」と言って膝を叩きながらナンシーさんの著書を読むわけですが、もう面白かった。著者の本は平成生まれの人達が読んでも、知っている芸能人があまりいないから面白くないかもしれませんが、昭和生まれの自分には刺さりました。
確かに悪口ではあるんだけど、暗くないんですよ。ねちねちしていない。特にサッカーのワールドカップになると張り切ってサッカーファン面する芸能人の斬り方なんてもう最高でした。

毒舌ってセンスや文才がない人が書こうとすると、陰湿なものになる。短調に例えると、雨の昼下がりに家にこもって聴くのにぴったりな美しい曲なのではなく、なんか聴いているだけで呪われそうな曲。それか言葉尻がきついだけの文章とか。
でもナンシー関さんは書かれた側がぐうの音も出ないようなことを、さらりと書いていました。

以前作家の姫野カオルコさんが林真理子さんのエッセイの解説をこんな風に書かれていたのを目にしたことがあります。以下、うろ覚えです。



「こんなミーハーな、たいして頭を使わなくても書けるようなことを書いてお金をもらえていいよね、と思っている人達がいるみたいだけど、読んでいる側が頭を使わなくても読めるものほど、書いている側は頭を使っているものなのです」

ナンシー関さんは座って15時間TVを見て、消しゴム彫って文章書いて、好きなことだけできて幸せだったでしょうね、という見方もできます。だけど故人がTV評をあそこまで面白くするためにどれだけ頭をひねったかということは、想像もつきません。消費エネルギーは大きかったと思うな。

小さなスナック (文春文庫)

リリー・フランキー氏との対談、最高でした。あとがきは涙なしには読めません。