奪っていくだけの女とだらだらつきあい続けた理由



「与え合える人、奪っていくだけの人」 という記事で、こいつは奪っていくだけの女だなと思ってもつきあい続けていた頃もあったと書きました。
その理由は、自分がその人の人生の軌道修正のお手伝いをしなくてはいけないのではないか、という謎の使命感と、自分ならできるのではないかという思い上がりです。

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photo by Rainier N.

両方とも根底にあるものは一緒で優越感ですね。私の母親は、私達姉弟の友達が家に遊びに来ると歓迎してくれましたが、たった一人だけ歓迎されない子がいました。それは弟の友達でした。弟が中学一年生の時で、その友達は弟の一年先輩でヤンキーでした。

「明るいヤンキーはいいんだけど、ママね、ああいうヤンキー嫌だわ。蛇みたいじゃない?あの子。なんか暗いのよ」

蛇に失礼なのかその子に対して失礼なのかよくわからないこのくだりを、今でもよく覚えています。ただ母の言いたいことは私も理解できました。彼はシリアルキラーっぽいっていうか、猫を殺してそうな感じの暗さが漂っていたんですよ。

「親としては心配なのよ。色んな人と出会い、色んなことを学んで欲しい。だけどあのくらいの年齢の子って周りに影響されやすいでしょう?それがあの子の今後を大きく変えてしまったとしたら、後で本人が軌道修正しようと思っても、もう時既に遅しってこともあるじゃない。親としてはなるべくその軌道の歪みが微調整で直る程度のうちになんとかしてやりたいのよ」

この言葉が、いつまでたっても忘れられなかったのです。だから奪っていくだけの女達と出会う度に「こんな人間になってしまったってことは、彼女達は多感な時期に変な友達から汚染されて、軌道修整を手伝ってくれる親がいなかったとか・・・」と思ってしまうんですよ。だから彼女達の軌道修正は、これから始まる。そして自分はたまたま近くにいる。じゃあお手伝いをしなくてはいけないのではないか?
だけどボランティア活動は長く続かないものなんですね。まずは根っこをなんとかしなくちゃいけないのに、そこには目を向けずに立派な幹や枝、葉ばかりをつけたがっている人達と話をしていても、平行線のままでいらいらしてしまい、花は咲かないよって言いたくなるんです。そしてやはりお金や時間を費やすなら、私は元気がもらえる人やモチベーションが上がる人と一緒にいたいんですよ。

時間/お金の浪費は本当にもったいない。

 

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