いつか「がつん」とくるんじゃないかなと思うと処分できない一冊

 

「読書ギャグ漫画」というドツボなジャンル:「バーナード嬢曰く。」が面白い! : まだ東京で消耗してるの?


イケダハヤト氏が書かれた記事で紹介されている漫画が面白そうなのです。特に「百年の孤独」に関する部分では笑ってしまいました。読んだ事がある方ならぜーったいに共感できるはずです。

「このアウレリャノはあのアウレリャノの息子で・・・いや同一人物?また違うアウレリャノか!・・・・南米め!!!!!()」

わかる・・・・わかるわ!!!!

だって登場人物ってこんな感じなんですよ。まあ家系図をご覧になって。暗くて見にくくてすみません。

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私はこのページに付箋紙を貼って「百年の孤独」を読み続けました。で、やっぱり疲れるんですよ。それである時ふと思ったのです。


「あんたはこの作品が無名の作家によるもので、図書館の隅においてあってもそうやって付箋紙を貼ってまで読んだ?『名作』だと知っているから読んでいるだけじゃないの?」

多分名作だから読んでいたのだと思います。正直言って没頭できませんでした。常に「この人とこの人はどういう関係なんだっけ?」ということが頭の片隅にあったので。
だけど香りや色、質感、そして情景全体がくっきりと浮かび上がってくるような表現を読んでいて、ああ、純文学ってこういうものなのかなと思いました。

http://www.flickr.com/photos/43355249@N00/8494799695

photo by szeke


あまり心を打たなかった書籍はすぐに処分してしまうのですが、この本はまだとってあります。というのも、いつか「がつん」とくるんじゃないかな、と思うんですよ。本って読むタイミングによって受ける印象がだいぶ違うじゃないですか。
なんとなく手にした本が、その時の自分の精神状態にはすごく必要なものだったり、逆にそれを二週間後くらいに読んでも、もうなんとも思わなかったりね。皆さんも心当たりはありませんか?
私はアマゾンの「ほしい物リスト」を三ヶ月に一回くらいの頻度で見直すのですが、見直しの際はかなりの数の書籍を削除します。たった三ヶ月の間でも、人間の精神状態とか、興味のあるものって変わるものなのですね。

南米全体かどうかはわかりませんが、本作品の舞台となったコロンビアでは、長男に父親と同じ名前をつけるのが慣わしです。

 

cantfoolme.hatenablog.com