公文というと、賛否が真っ二つに分かれますよね。
子供を座らせて、淡々と教材をやらせておくだけなのですから。今もこのスタイルなのかどうかはわかりませんが、私が子供だった昭和50年代後半~60年代はそうだったのですよ。
私は確か年長あたりから公文に通い始めたのですが(算数・数学)、通ってよかったなぁと思いますね。
「自分のペースでどんどん教材を解き進めることができる」
もうこれが素晴らしかった!だから逆にやる気がない日はてれてれやっていましたし、淡々と教材をこなしながら、わからないところがあったら先生や丸つけのお姉さんのところに聞きにいく、というやり方が私にはあっていたのでしょう。誰の邪魔もせず、誰にも足を引っ張られない。
そして教材の内容が、自分の実際の学年よりも1学年以上進んだところまでくると、もう面白くてしようがないのです。そして学校に行ってもう既に知っていることを教わるのは気持ちが楽でした。数字に弱いことを自分で自覚していたのかな、と今になってみて思います。苦手意識があったからこそ、予習をしておきたかったのでしょう。学校の算数・数学の授業ではものすごい安心感でしたね。
そんなわけで小学校の算数のテストを異様に早く終えて、一人で寝て待っている私の周りを、先生が算数が苦手(というか勉強そのものが苦手)な子でかためるようになったのです。そして私はその同級生達に勉強を教えるようになりました。教室の中に小さな寺子屋があるような感じですね。
この頃の経験は大人になって子供にものを教える仕事に就いた時にとても役に立ったし、もしも担任の先生が寺子屋を開かせてくれなかったら、私はきっとうざキャラになっていたことでしょう。
先生:「これわかる人ー」
私: 「はいはいはいはいはい!!!!!!!!」
全ての質問にこんな風に答えていたと思います。だけど小さな寺子屋でエネルギーを発散できていたから、「私、全部知ってます!」というアピールをしなくて済んだんじゃないかな。
そして公文の「やったらやった分だけちゃんと自分に返って来る」というのは、自分のブログ好きにもつながっているんですよ。
ブログアフィリエイトをやっているので、一人で解説本と首っ引きで、黙々と作業をする時間が結構あるんですけど、それが全く苦じゃないんですよね。解説書を読んでいて「ああ、日本語が難しい!わからない!」と思って噛み砕いて説明してくれるサイトをググるも、その説明すらよくわからない場合はお手上げですが。