自分の美意識に苦しめられた女達



なりゆき(一応、ニュース翻訳者)様という方が書かれた「ドサ回りで稼いでいた森瑤子」という記事を読んだ後、「安井かずみがいた時代」を読んだ時に感じたものとまったく同じものを感じてしまいました。



作家の森瑤子氏と作詞家の安井かずみ氏には共通点がいくつかあります。バブル時代に活躍したということ、繊細でエゴイスティックな美意識の持ち主であったこと、そしてその美意識の強さから自分という人間を演じ続け、50代で癌で亡くなったその時、ようやく演じることの苦痛から解放されたこと。
森さんの場合は、お洒落な流行作家として、自分の作品の商品価値の維持・向上のために演じ続けなくてはならなかった部分もあると思います。さらにこの二人は親友でした。言葉をツールとして仕事をしていた彼女達ですが、そんな彼女達でさえ自分達の美意識を言葉で説明してわかってもらうのは難しいことだったと思います。だからこそ口に出さなくともそれを感じ取れる者同士として惹かれあったのでしょう。おそらくこの二人は、洗練というものにすごくこだわったはずです。

「安井かずみがいた時代」を読んでいて印象に残っているのが、安井氏が何かにつけ言っていた「私、フェリスだから」というひとこと。彼女が何を美しいと感じるか、その美学や美意識はフェリスに通っていた頃に培われた精神を源流としているのでしょう。
安井さんが生きていたら、日本人女性達は年をとることが怖くなかったかもしれない、と本書を読んで思いました。彼女のような、洗練の極みを体現しているロールモデルの存在があったら、三十を越えた女性が「大人可愛い」などという恥ずかしいものに走らなかったと思うから。エルメスのバーキンを所持していながら、「50代になるまでは持たない」と使わずに保管していた安井さんが考える、バーキンに負けないオーラや風格を持つ女性が現れたことでしょう。

彼女が大麻所持の容疑で留置場に入れられた時に、出された食事に少しも口をつけないことを心配した職員が「何を出したら食べてくれるのか」と聞いたら「カフェオレとクロワッサン」とフランス語と同じように発音したため、職員は彼女が何をほしがっているのかわからなかった、というエピソードには笑ってしまいました。
想像できませんか?あのクロヮッスォァ~~ンと表記するしかないような(~~の部分は鼻から息を吐き出す感じ)言い方で安井氏がけだるそうに答える姿。これは安井さんだから許されているようなものであって(それでも私はなんか鼻につくな、と思いましたが)、そこらへんの普通の女がやったら「てめぇは普通に喋れねえのかよ!」って画鋲が刺してあるスリッパの裏側で頭を叩かれておしまいですよ。
彼女達が今生きていたら、魅力的な70代になっていたことでしょう。だけど彼女達は早くこの世を去る運命で、またそれで幸せだったのかもしれません。
ブランドのロゴが入った紙のショッピングバッグをサブバッグとして使う貧乏臭い女の子達が出現して、世の中から美しいものが減っていく前に、この世を去ることができたのですから。

「安井かずみがいた時代」


関連記事:ロールモデルを演じ続けるのも大変だったと思う 歩くエレガンス・安井かずみ - マリア様はお見通し