マリア様はお見通し

普段は何も見えていないふりをしながら、善人面して静かに暮らしています

自分の人生に要らない人だと思う瞬間

20代後半くらいになった頃から、人間関係の整理の必要性が定期的に頭をよぎるようになりました。「もうこの人と関わるのはやめよう」と思っても、その人にはよいところもあるし、完璧な人間などいない、相手も私の悪いところを受け入れてつきあってくれていると思うと、なかなか整理がつかないものです。だけど相手に対してなんともいえない嫌な感じというか、受け入れがたいものを感じたら、その感覚に従っていいと思います。なぜなら「もうやりとりをするのは今後一切やめよう」と思うきっかけになる出来事は必ず遅かれ早かれやってくるのです。


私の場合は知人Bのあるひとことが引き金となり、それ以来まったくこちらからは連絡をしていません。テキストメッセージが来ても放置。
Bは明るく話も面白いため、友達が多い女性でした。一見「なんか嫌な感じ」の正体になる闇を抱えているようには見えません。まさにこんな感じ>>一見それとわかりにくい疫病神達 - マリア様はお見通し

だけどつきあっていくうちに見て見ぬふりをしきれなくなったのが、彼女の卑しさでした。詳細はここでは書きませんが、そういう人とつきあう時間がもったいないと思いつつもBをばっさり切り捨てることができなかったのです。話が面白いから。私も愚かでした。
しかしある日、Bが何気なくいったひとことで「ああ、終わったな」と自分でも驚くくらいすっきりとたちきることができたのです。自分の好きなように生きてきてその結果子供には経済的に苦しい生活を強いたB。それでも「うちの子は幸せ」と彼女は言っていたし、確かに傍から見たら貧乏でも子供は幸せだったのかもしれません。その子が幸せかどうかは周りが決めつけることではありません。
だけど大人は我慢できても、同じ我慢を子供に強いるのは酷です。貧乏の原因を作っている本人はそりゃ耐えられるでしょう。貧乏は自分の選択の結果なのですから。だけど自分が好きで貧乏になったわけではない子供は、お金がないゆえに手に入らないものが増えていけば、当然他の子供に対する羨ましいという気持ちがどんどん大きくなり、それを抑え込むことすら難しくなります。
それでもずっと我慢を強いられ、その分早く大人になってしまい物分かりのよかったBの子供。その子供に対し、Bが「うちは貧乏だけど、勉強は頑張って。そして親を養える立派な大人になってほしい」と言うのを聞いた時、自分の中で驚くくらい穏やかに、静かにすっと灯が消えたのです。人間関係の整理というと、誰かに対しもう耐えられないという感情が爆発してようやく整理に至るというイメージを持っていた私ですが、最後は本当にあっけなかったのです。燃えカスも出ない。
私にとって誰かを自分の人生から削除する時の引き金になるものは、嫌悪ではなく軽蔑なのだと思いました。


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