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マリア様はお見通し

普段は何も見えていないふりをしながら、善人面して静かに暮らしています

埋められない溝を飛び越えてはいけない(1)田舎の友達とどんどん疎遠になる理由


田舎の友達と疎遠になった理由は、やはり距離ですね、といいたいところなのですが、どんどん疎遠になっていく中で思うことは「もしかすると互いの人生に留まる必要のない者同士なのではないかな」ということ。
実は距離なんて関係なくて、遅かれ早かれ、つきあいのなくなる人達だったんじゃないかなぁ。

離れて暮らしている間に互いの人生に起こったことがいっぱいあるわけです。
それらを久しぶりに会った時に「積もる話」としてするのか、あるいは触れてはいけないから誰もがスルーするのか・・・・。
私の場合は「この話、知らないのはあなただけだけど、まあつっこまないでよね。それが大人というものでしょ。今までどおり皆で仲良くやりましょう」と思われていた立場でした。

http://www.flickr.com/photos/9146740@N03/2646762238

photo by jimpg2_2015

田舎の友達から出産報告のメールが届いた

彼女が独身であることは知っていましたが、妊娠をきっかけに結婚した話も特に聞いていなかったので、そのメールを読んだ時は、未婚の母になることを選んだのだろうなと思いました。だけどそこらへんはスルーして「おめでとう!」とだけ返信しました。
そして帰省した時、いつものメンバーで集まりました。彼女も彼女の子供もいましたが、父親が誰なのか知らないのは私だけです。もちろん触れてはいけないという「空気読めよ」という空気が濃かったので、私はそこには触れずに赤ちゃんを抱っこしたりしました。

「私がいなければ皆はもっと色々なことが話せるだろうに・・・・」

当然私はそう思うようになるわけです。だけどお盆や正月のために帰省すると、やはり彼女達の集まりに呼ばれて、誰にとってもなんともいえないぎこちない時間を過ごすことになるのです。
「事情」を何も知らない私が一人いるだけで、こうなってしまうのです。

「なんだかこういう仲良しごっこ、面倒くさくなってきたなぁ」

目の前にいる人の頭からチューリップが咲いているのに、誰もそのチューリップが見えていないかのようにお喋りに興じるふりをしているような感じっていうのかな。
私は父親が誰か知りたいわけじゃなかったし、教えてもらったところでどうせ自分の知らない人だと思うのですが、皆で集まって楽しくやりたいというよりは、もう無理して集まって飲んでるっていう感じが切なかった。目の前にいる人達との距離は近いのに、互いの心の距離がすごく遠いように感じました。
だけど私が帰省することを知っている限り、彼女達は私を「集まりに呼んであげなくちゃいけない」と思う。それが彼女達の優しさだったのです。
そして私はこの仲間達には帰省することを知らせずに帰るようになりました。他の友達や親戚には連絡しましたよ。

こっそり帰省して見つかった時の気まずさ

それからしばらくして帰省した際、居酒屋で他の友達と飲んで、心から楽しむことができました。離れていてお互いまったく違う人生を歩んでいて、だからこそ話が尽きない。ああ、田舎の友達や、久しぶりに会う人と過ごす時間ってこういうものだし、お酒もうまいよななんて思っていたら「ねえ、あれマリアじゃない?」という声が店の入り口からきこえてきました。

嫌な予感がした私が入り口を見ると、未婚のまま子供を産んだ女性と彼女の友達(いつも飲んでいた仲間の一人)が立ってこちらを見ていました。
私は「ああ、どうも」となぜか自分でも怖くなるくらい冷静で、他人行儀でした。もちろん「マリアが帰省している」という知らせはすぐにかつての仲間達に広まりました。
私が関東に戻ってきてから数日後、その仲間達から「帰省してたんだって?」という探りを入れるようなメールが次々に届きました。
このあたりから、私だけでなく彼女達からも「溝」の存在が見えるようになったと思います。

「会いたいね」の社交辞令すら面倒くさくなってきた

彼女達は私がなぜ離れていったのか見当もつかなかっただろうし、今でも「なぜ・・・」と思っていることでしょう。「マリアが私達を避けるようになるような、何か悪いことしたかなぁ」と思わせていたら申し訳ないけれど、時々メールが来て「次はいつ帰ってくる?会いたいね」と書かれていると、とりあえず返信で文字数稼ぎのために自分も「会いたいね」と書くことすら面倒になってきました。
もう溝を埋めたいと思う気持ちがないのです。
埋めたところで私はそこを歩いて渡りたいと思うだろうか?と思うと、もうあちら側に行きたいと思う気持ちはないし、よく考えてみたら、彼女達とつきあい始めた時からなんとなく自分は無理をしていたな、と気づくきっかけにまでなりました。

自分の田舎は大好きです。
自分が中学生の頃に買い食いした大判焼き屋がまだ営業しているのを見て、ノスタルジアにひたったり、街灯に照らし出される雪の白さとはかなさ、冷たさは、川端康成が「雪国」で描いた雪国の様子よりも美しいです。
だけどもう彼女達との集まりは、自分の居場所ではないなと思うのです。

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