自分の物差しで他人の幸せは計れない、決められない

 故田中角栄氏のお妾さん(の一人)だった辻和子さんという芸者さんの手記です。あえてお妾さんという言葉を使わせてもらいます。本書を読んでいて、自分が生まれる前に使われていた日本語っていいなぁと思いました。文学の香りがぷんぷんとします。

熱情―田中角栄をとりこにした芸者

熱情―田中角栄をとりこにした芸者

 

 言葉だけではありません。愛し合う男女のやりとりもそうです。今の時代は利き手の親指一本で様々な思いが伝えられます。だけどこの頃はそうじゃなかった。
田中氏が「旦那」になることに大反対だった著者の義母(置屋の経営者)は、二人を引き離そうとするのですが、それに対してむくれてしまった著者は仮病に近い形でふて寝し、しばらく仕事を休むようになってしまいました。
しばらく顔を見ないことを心配し、その理由を察した田中氏が、著者を温泉療養させるための援助を申し出たため、著者は義母とともに熱海に行くことになったのです。
そして田中氏は著者に会うためだけに忙しい中熱海までやってきました。換えの下着が入った風呂敷包み一つだけを持って。
風呂敷包み一つで現れる、なんてもう今の時代じゃお目にかからないじゃないですか。この時代はこれが普通だったのかもしれませんが、私はこのシーンを読んでいて風情があるなぁと思いました。

自分に会う為に熱海まで風呂敷包み一つだけを持ってやってきてくれた男。
その人が既婚者でも、著者にはまったく関係ないのです。

「一緒になろうか」

そう田中氏に言われて幸せだったのです。
この言葉の意味は「妻と別れて君と再婚する」ということではありません。

当時はお金や権力のある男性が堂々とお妾さんを持つ時代でした。特に著者が生きていた、不文律を含む古いしきたりが数多く存在する閉ざされた世界では、なんと「旦那様」のお披露目会まで行われたのです。二人の仲の証人となるため、八人の芸者がこの会に出席しました。

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photo by shoottokyo


「もうこれで地元では浮気できないでしょう」と著者は言っていますが、浮気も何ももう彼は他の女性と結婚している人だし、おまけに神楽坂には自分以外にもう一人女がいて、料亭を建ててもらってそこの女将になっていたのです。
私ならこの時点でかなり引きますし、そもそも複数対一を前提とした関係に身をおくことができません。
だけど著者は結婚願望がまるっきりありませんでした。それよりも芸を磨き続けるために「いい旦那さん」が欲しかったのです。芸を磨き続けていくには、お金がかかるという現実的な問題があります。
ですから金銭面で支えてくれるだけの余裕があり、しかも男性としても人間としても魅力がある田中氏に囲われることは著者にとっての幸福でした。

やはり置屋に売られた時点で、普通の人達とはまったく違う人生を歩むのだなぁと思いました。彼女が生きていた世界の「普通」は、私には到底受け入れられないものもあります。だけどそういう人生もあるのだ、そういう幸せもあるのだ、ということは知っておきたいと思いました。
自分の物差しで他人の幸せは計れないし、決めつけるべきでもないのです。

100冊のモテ本より、1冊のお妾本のほうが濃くて面白い - マリア様はお見通しに続く>

熱情―田中角栄をとりこにした芸者