デヴィ夫人のシンデレラストーリーの裏側

デヴィ夫人の新著「選ばれる女におなりなさい デヴィ夫人の婚活論」を読んだ感想です。率直に言うと筆者が知りたいことはほとんど書かれていませんでしたし、婚活本としては普通にコンサバでお金を出してまで読まなくてもwith onlineで読み切っていいのではないかと思いました。気になっていた「スカルノ大統領との結婚は本当にシンデレラストーリーなのか?」ということについてさらっと書かれていたので、それに関して思ったことを書きます。

赤貧を洗うがごとしの幼少時代ー失明した父親、脚の悪い母

デヴィ夫人は根本七保子さんとして、現在の西麻布である港区霞町に生まれました。彼女の美しさは幼少の頃からとびぬけており、近所の兵舎に住んでいた米兵達がジープに乗ってお菓子を配る時は、やはり可愛い七保子さんがまず目に飛び込んでくるせいか、彼女にだけはたくさんチョコレートなどが飛んできたため、次の横丁でも大人達が七保子さんを使ってアメリカのお菓子を少しでも多く手に入れていたそうです。これだけ可愛い女の子なら、小学校に上がってもちやほやされたことだろうといいたいところですが、先生達が特別扱いしたのは「特別に可愛い私」であった七保子さんではなく、お金持ちの子供達。この現実に七保子さんはショックを受けました。
戦時中に飲んだメチルアルコールが原因で視力を失った父、脚の悪い母のもとで育った七保子さんは、幼少時代を「貧しくとも逞しい少女時代」と回想しています。

16歳で一家の大黒柱になる

中学生になるとそれほど勉強しなくても学力テストではいつもトップクラスの成績を維持していた七保子さん。周囲は当然彼女が当然高校に進学するものだと思っていましたが、七保子さんは家族を支えるために就職し、定時制の高校(のちに中退)に進学することにしました。そして16歳の時に父親が他界し、七保子さんが一家の大黒柱になりました。
家庭の台所事情が理由で皆と同じように全日制の高校に進学できずにお気の毒に、という目で七保子さんを見ていた周囲に対し、七保子さんはあっけらかんと「これで自分の人生を生きられる」と思ったそうです。この時進学して学業に専念していたら、自分の人生はまったく違ったものになっていただろうとデヴィ夫人は語っていますが、まさにここを分岐点としてインドネシア大統領の第三夫人への道がのびていたのでしょう。

現代ならありえないであろうシンデレラストーリー

「第二章 大統領との運命の恋」とありますが、私がこのシンデレラストーリーが現代ならありえないと思うのは、それが人身売買と同じことなのではないかと思うからです。
デヴィ夫人がスカルノ大統領に見初められた当時、まだ19歳で高級クラブ「コパカバーナ」のホステスとして働いていました。顧客の多くが外国人の富裕層で、在籍していた女性達は外国人のVIP達の接客をするために選ばれた美女で、英語も流ちょうだったそうです。
美人が簡単に作り出せるようになった現代に比べると、美女が希少であった時代です。その中から一国の大統領への貢ぎ物として選ばれるくらいですから、夫人の美しさは際立っていたのです。それは本書にも掲載されている夫人の若い頃の数々の写真を見てもよくわかります。

話をお二人の出会いに戻すと、本書では「運命の赤い糸の前兆」とあるのですが、これはもうものはいいようとしか言えません。当時19歳だったデヴィ夫人をスカルノ大統領に紹介したのが「東日貿易」という商社の社長をしていた久保正雄という男性でした。
この東日貿易は政府の戦後賠償の事業を請け負っていたそうですから、インドネシアに対しても賠償をしなくてはならなかったのでしょう。
当時デヴィ夫人はコパカバーナで外国人の富豪達からプロポーズを受ける日々を送っていました。だけど美女とはいえ歳をとります。端役しか与えられない、開花するかどうかもわからない女優業、ホステスとしての寿命・・・・自分はこのままでよいのか?そう思っていた時に久保氏から「紹介したい人がいる」と言われ、なぜか彼の言葉に自分の人生をかけてみようと思った夫人。
久保氏に映画に誘われたものの、待ち合わせの帝国ホテルのグリルの入り口に久保氏は現れず、目の前を通りかかった軍服の要人のお供の一人がやってきて「ミスター久保は仕事のミーティングが長引いております。上でお茶会をやっていますのであなたもいらしてください」と言い出したのです。そして案内された部屋に行ってみると、奥のソファに先ほど見かけた軍服の要人=スカルノ大統領が座っていたのです。
スカルノ大統領は当時58歳。19歳の美女を自分のハーレムに入れる前に品定めするために帝国ホテルにおびき寄せたのか、あるいはコパカバーナで見かけて既に目を付けており、正式に輸入する前に商社である東日貿易を通そうと思ったのかはわかりませんが、今の時代ならもうこのように一国の要人が国際ロリ婚するとは思えません。
そして実はこの顔合わせの前に既にデヴィ夫人はコパカバーナを辞めているのです。ここがおかしいと思いました。
男性を紹介されるだけなら、コパカバーナでの仕事を続けるでしょう。久保氏がデヴィ夫人に紹介の話をした時、19歳の美女に率直に「大人の事情ならぬお国の事情で君にインドネシアの大統領の愛人になってほしい」と伝えたのではないでしょうか。だからデヴィ夫人はコパカバーナを辞めたと思うのです。

色を好む英雄のもとに嫁いだデヴィ夫人

インドネシアに渡った頃はまだ愛人という立場だったデヴィ夫人。当時既にスカルノ大統領は三回離婚していました。現在wikipediaを見ると第一、二夫人に続いて第三夫人のところにはデヴィさんのお名前、そして続いて「以下多数」と書かれていることからもわかるように、デヴィ夫人と結婚した後に3回結婚しています。まさに英雄色を好むといったところです。それでも夫人は、カリスマ的で雄弁な一国の国家元首に選ばれて幸せでした。貧しい家庭に生まれ辛酸をさんざんなめてきた美少女にとって、一国の大統領に嫁ぐことで周囲を見返したかったのかもしれません。
当時デヴィ夫人は母親と弟も自分の力で高級マンションに住まわせ、お金にはもう困っていませんでしたから、インドネシアに渡ってスカルノの愛人になることで相当の報酬を提示されたとしても、それほど魅力を感じなかったと思うのです。デヴィ夫人が欲しかったものはお金ではなく、少女時代に貧しいというだけ味わった屈辱に決別できるだけのステイタスだったのではないでしょうか。

本書を読んで物足りないと思った点

私がこの本を読んで残念に思ったことは、美しさだけでは到底渡り歩いていけない、亡命先であるフランスを中心としたヨーロッパの社交界で彼女を支えた知性と教養の源については触れられていなかったこと。ロスチャイルド夫妻が顔を出すような場でも見かけられたくらいですよ(ロスチャイルド夫人の写真にデヴィ夫人も映っていた)。
これらを手に入れるために、いくら地頭がよい夫人とはいえ人知れず相当努力をされたのだと思うのです。その努力については触れられていなかったのが残念でしたが、婚活本には必要のない情報ですものね。それは回想記を読めば書かれているのでしょう。
デヴィ夫人が「何度も読んだ」と大昔にTV放送で触れたモーパッサン著「女の一生」は私も読みました。


それから「わたくしはこんなハイスペックな男達と戯れた/愛された」「わたくしの場合、男性に求める条件は名誉、地位、収入、教養、ルックス、そしてセックス」「わたくしは・・・・」「わたくしは・・・・」と実際に目の前で聞いたら食傷気味になってしまいそうなお話も、彼女の美しさなら納得せざるを得ないものでした。普通の女が同じ話をしたら顰蹙を買うことでしょう。ただ自慢話の部分はもう少し知的に見えるように編集してあげたらよかったのではないかと思いました。激動の昭和を生き抜いた美女の本なのに、近代・現代日本史を彩った女達 - マリア様はお見通しで紹介した書籍と違い、再び読み返してみたくなる魅力が感じられませんでした。


選ばれる女におなりなさい デヴィ夫人の婚活論



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「村人になりたい」といった親友と、彼女の幸せを願うことができなかった私




私が初めてヤマギシズム楽園村に滞在した年の翌年になると、仲良しグループ5人のうちヤマギシ会の会員だったFちゃん以外は楽園村から遠ざかりました。
早起きをして鶏舎で作業をすること、よく噛まずに食べること、なんでもにこにこ「はい!」と応じること、よく知らない人達との共同生活に、すぐに飽きてしまったというよりは、自分達には無理だと思ったのです。煩悩だらけの俗世間の方が幸せだとしみじみ思いました。
ロールモデルとして憧れ、そして正直に言うとちょっと疎ましく思っていたFちゃんが俗世間を捨てて楽園村の村人になると言い出したのは、それから数年たった晩秋のある夜のことでした。

Moonlight


私達は中学生になっており、その夜私は学習塾に行き母親がいつものように車で迎えに来ました。そして農道を走っていると母が急に速度を落としはじめ、母は「あれ、Fちゃんじゃない?」と言って指さしました。見覚えのある学校指定のジャージの上にコートを着ないで歩く、すらっとした長身の女の子は、Fちゃんのようにも見えました。雪国の晩秋の夜の冷え込み方を考えると、ジャージ一枚で歩いているのは何か事情がありそうでした。強い衝動にかられ、家を飛び出したのではないか。
母は車を停めて、私に窓からそのジャージ姿の女の子に声をかけるように言いました。

「Fちゃん?」

その女の子は一瞬びくっとして、窓から顔を出す私を見ました。私もその子の顔をよく見てみると、母の言うとおりFちゃんでした。泣きはらした顔でした。私は車から降りてFちゃんに一緒に車に乗るように話しましたが、最初は乗りたがりませんでした。
「マリアちゃんのお母さんの車に乗ったら、どうせうちに送り返すんでしょ?!」
ただごとではないと察した母は、とにかくまずは車に乗って、皆でうちに帰って温かいココアでも飲みましょうと言いました。
うちに三人で帰って私の部屋に上がってもFちゃんは泣き止みませんでした。
「ココア作るから、ちょっと待っててね」
石油ヒーターであっという間に暖まった部屋にFちゃんを残して、私はキッチンにおりました。もう少し彼女をそっとしておいた方がよいような気がして、キッチンで少し時間をつぶしました。部屋に戻るとFちゃんに「もう暗いのに、あんなところで一人で歩いていたら危ないじゃん」と言いました。すると彼女はなぜ一人で行くあてもなく歩いていたのか話し出しました。
「中学を卒業したらヤマギシ会の村に住んで、村人として生きていきたい」と言ったら、Fちゃんと同様に会員であるお母様に大反対されたからです。そして激しい言い合いになり、家を飛び出してしまったのです。私はFちゃんが中学生になってもヤマギシ会のメンバーとしてそれなりに活発であったことに驚きました。お互いに部活や勉強で忙しくなり、小学生の時のように多くの時間を過ごすことはできなくとも、お互いのことをよく知っているような気でいた私にはまさに寝耳に水だったのです。
そして次に感じたことが「正気なのか?」ということ。Fちゃんは才色兼備でしたから、彼女の頭脳があれば県下一の進学校にだって進めたはずなのです。なのに村人になろうというの?
だけど彼女が県下一の進学校に進んだとしてもきっとそこで彼女は自分の置かれた環境と透けて見える自分の未来に疑問を持ち、結局最終的には村を選んだのではないかとも心のどこかで思いました。
一般的な秀才とかクラスのマドンナといった言葉では表現しきれないのがFちゃん。
美人で頭もいい。テストの点数云々を超越したレベルで賢かったし、隠れファンだという男性生徒は大勢いました。表立ってFちゃんに告白する人数が少なかったのは、彼女が高嶺の花だったから。
モテても同性に嫌われなかったのは、あまりにも別格だったから嫉妬の対象にならなかったというのも理由の一つですが、誰に対しても同じように接し、自分の意見を言える子だったから。相手によって態度を変えるとか、そういうことをまったくしない子でした。教師に対してすら意見することはあったけど、それは別に自分が賢く見られたいとか、「教師に対してもものおじしない私」に見せたいからではなく、彼女はおかしいと感じたことはおかしいとはっきりいう子だったのです。またどこか浮世離れした存在でした。
そんなFちゃんが目的意識も意欲もなく「とりあえず入っておけば将来あなたを支えてくれるから」というだけで進学校に進んでも、どこかでそのレールを自ら降りてしまうであろうことは想像できました。
だったら村人になればいい。人には犯さなければその先に進めない過ちもある。親友だったら距離なんて関係ない。いつまでも互いの心の中に小さいながらも居場所を持つことができるだろう。
そう自分に言い聞かせたのに、やはり私は彼女の幸せを願えませんでした。私の近くにいてほしかった。なぜなら私は高校生になって門限が少し遅くなったら「皆とは別格のFちゃん」と遊びに行きたいところがたくさんありました。きっと彼女はもっと魅力的な女性になると思っていたし、自分が生きる上での指標としてFちゃんの背中を見続けていないと不安だったのかな。だから近くにいてもらわなくては困りました。
でもそのように無理をして互いの近くにいても、結局会わなくなっていくのだろうと、心のどこかで認めていました。友人なり恋人なり、人間関係というものは二人の魅力のつり合いがとれないとすぐに傾いてしまい、うまくいかないものだし(私達の場合、Fちゃんが圧倒的に魅力的だった)、彼女と私の精神は属する世界があまりにも違いすぎたのですから。
下世話なことが大好きな普通の女子中学生の私と、もはや変人ともいえるほど頭がよく、誰にも破壊されないバブルのような精神世界の中に生きていたFちゃん。

ココアを飲みながら村の話をして30分もするとFちゃんのお母様が迎えに来ました。
Fちゃんはその翌年、村人になってしまいました。しばらくなんのやりとりもありませんでしたが、高校2年生の時に連絡が来て一度だけ会いました。
「地元には何度か帰ってきていたけど、誰とも会いたくなくてマリアちゃんにも連絡しなかった」
私はこうして私はFちゃんの人生から徐々に自分が消えていくのだと思うと少し悲しかったです。ちょっとぎこちなく交わす会話の中でFちゃんがこういいました。
「幸せって、(ヤマギシの)村の人達だけが考える幸せだけじゃないと思う。色々な形の幸せがあっていいと思うのに、村の人達は他の形を認めようとしない」
地元でも村でも居場所が見つけられないFちゃんは幸せそうではありませんでした。そしてFちゃんはしばらくすると村を去ったのです。
それからも時々Fちゃんはどうしているのだろうと思うことはありました。
もしも彼女がちゃんと大学まで出ていたら、どんな仕事に就いていたかなぁとか、どんな男性を選んだのかなぁとか。だけど誰もがうらやむ仕事や男性、いわゆるハイスペックといわれるものを手に入れることにこだわるFちゃんを想像できませんでした。

30代前半になって、彼女が一度だけ会いに来てくれました。
たまたま機嫌がよかった神様が気まぐれで創り出した造形美のような顔立ちは変わらず、そして一番驚いたのは、我が家の最寄り駅で彼女を待っていた私が彼女を人ごみの中に見つけだした速さです。15年以上会っていないのですから、彼女がいかに美しいとはいえそう簡単にはわからないだろうと思っていました。だけど彼女の周りだけ違う空気が漂うような、精霊みたいなオーラは相変わらずで、私にとって「別格のFちゃん」がそこにいました。

Fちゃんの記事を今から5年半前に書いていたことを思い出しました。

>>携帯電話がなくても心がつながっていたあの頃 - マリア様はお見通し

10歳の私は、ヤマギシのはれはれTシャツを皆と一緒に着たかった

ヤマギシ会という団体がどういうものなのかということについては記事の最後に貼るツイートで簡単に言及するとして、彼らがその昔生産していた「はれはれTシャツ」、そしてそれを着たがっていた当時10歳の自分ついて書きます。

そもそも「はれはれ」って何なの?

山田ノジルさんという方が書かれた夏が来れば思い出す、子どもにもあやしく思えた「カルト村」での夏合宿 - wezzy|ウェジーというコラムを読むと、こう書かれています。

・「ハレハレ(晴れのち晴れ、楽しいばかりで嫌なことがないの意)」の世界で、「何でも、誰とでも『ハイ』でやれる」子どもが最高だとされる
(要は素直にコントロールされる子ども最高!ってことですね)


このモットーのようなものをモチーフにしたTシャツを、夏休み明けでしたでしょうか、同級生4人が学校に着てきたのです。赤地に白い太陽。太陽は微笑んでおり、はれはれのロゴの入ったTシャツでした。

布教活動のつもりはまったくない、無邪気な子供達が着るはれはれTシャツ

当時この4人と私の5人で仲良しグループでした。そしてはれはれTシャツを着ていなかったのは、ヤマギシズム楽園村での7泊8日の体験のようなものに参加しなかった私だけ。母親の強い反対にあい、参加できなかったのです。これが10歳の子供にどれだけ辛いことか、想像できますか?
上級生達はこの4人のTシャツを見て馬鹿にして笑いましたが、私はそれでも4人と同じものを着たかった。どうせなら4人から仲間外れにされたほうが気が楽でしたが、彼女達は私を外してくれませんでした。おそろいのTシャツを着ていない私とあえていつものように行動を共にすることで、村で一週間を過ごしたことで得る一体感をより強くしていたように思えました。
「マリアちゃんは可哀そうな子。私達の親はヤマギシの楽園村に送り出してくれたのに、マリアちゃんのお母さんだけはダメって言った。厳しいお母さんを持つと大変だよね」
楽園村に行った4人は布教活動のためにはれはれTシャツを着ていたわけではありません。夏休みに特殊な環境でともに過ごした時間の延長上で、興奮をおさえきれないまま着ていただけなのです。

まさかの色ち買いで続いた憂鬱

彼女達は赤地に白のはれはれTシャツを毎日着て、一週間登校しました。週末を迎えた私は「ああ、これでようやく辛い一週間が終わる」とほっとしました。さすがにもう来週ははれはれTシャツを着てこないだろうと思ったのです。ですから週明けに登校する時は心は軽かったと記憶しています。
ところが月曜日に登校すると、4人の親友達は先週着ていたパターンを反転させたデザインの、白地に赤の太陽&はれはれのロゴTシャツをお揃いで着ていました。4人の姿を見た時の私の気持ちを想像できますか?ああ、また苦しい一週間が始まる。5人グループなのに私だけ普通の洋服を着て「楽園村に行けなかったマリアちゃん」「厳しいママの言うことをちゃんと守るいい子のマリアちゃん」って思われるんだ。
いい子で何が悪い?と思う方もいるでしょうが、思春期が近づいてくると「いい子だね」と褒められることはそれほど喜ばしいものでもなく、むしろ格好悪くすら感じてもおかしくないのです。
帰宅してこの気持ちを母に話しても軽くあしらわれておしまいです。そもそも彼女が私の楽園村への参加を許してくれなかったから、こうして娘の私が苦しんでいるのに。学校に行っても憂鬱だし、かといってど田舎の小学校に通う私には、学校をさぼっても時間をつぶすところなどありませんから、学校に行くしかないのです。こうしてまた憂鬱な一週間が始まり、私は母と口をきくことをやめました。「ママさえ反対しなかったら私は今頃こんな思いをしなくて済んだのに」
こうして私はストライキに入ったのです。

あっけなく終わったストライキ

母とは違い父はとても楽観的で「仲良くしている友達が皆行くのに、どうして行かせてやらないんだ?」とすら言っていましたが、母は断固反対し、その結果娘は一時的に反抗的になったうえ稚拙な(子供だから稚拙であたりまえですが)ストライキに入ったわけです。ところがストライキといっても、母と口をきかないことで損をするのは娘の自分なのです。母は私に口をきいてもらえなくても痛くも痒くもない。
結局このストライキは、母と喋らないことがいかに生活を不便にするかということを受け入れ屈した私の意志ですぐに終わりました。そして母は、秋に栃木県大田原市の農場で行われる二泊三日のイベントに4人とともに参加することを許してくれました。二泊ならそれほど村に染まらずに帰ってくるし、染まったとしても家庭で軌道修正するのは容易だろうと思ったのでしょう。二泊三日の感想は洗脳は、解けなければ幸せだ - マリア様はお見通し という記事に書いてあります(記事中ではヤマギシの名前は出していません)。
私が当時の母の選択と行動に心から感謝し、自分のくだらないストライキを恥じたのは、大人になってからでした。母は自分の娘を洗脳やカルトから守ろうとしていただけだったのです。
10歳の子供を特殊な環境に放り込めば、洗脳までいかずとも、考え方をはじめとする人格形成において大きな影響を受けて取り返しがつかなくなることも十分にありえますし、7泊8日というのはそれが起こるのに十分な時間と言えます。母はそれを恐れていたのです。
仲良し5人グループがヤマギシズム楽園村のイベント(研修?)に行けたのは、5人のうち一人が会員で、その他の4人を紹介する形でした。この会員の女の子が私達や世間と離れ、村人になってしまった時のことはまた別の記事で書きます。

 

車窓から見た短い夏

素晴らしい一冊の本を読み終えてしまいました。
その本の中に書かれていた一部分を読んでふと思い出したのは、私が生まれ育った雪国の短い夏です。
私がまだ小学生だった頃のある年に電車の車窓から見えた日本海側独特の夏の輝きが、その数行を読んで鮮やかに蘇ったのです。すぐ終わってしまうとわかっているから、どことなく寂しく感じてしまうあの輝き。
一冊の書籍を読んだことをきっかけに蘇っているのは、心の中で起きている現象なのか、それとも脳内で起きているものなのかはわかりませんが、日本海に沿って電車で旅したあの30年前の夏休みの楽しさが今でも自分を幸せにするのです。

角田岬灯台


その年の夏休みのある日、仕事中の父を除いた家族で信越本線に乗り、直江津水族館(現在は上越市立水族博物館)を目指しました。幼い頃から地図や電車の路線図を眺めるのが好きだった私は、自分が暮らしていた場所から柏崎あたりまではだいたい駅名を知っていましたが、柏崎から向こうはあまり熱心に覚えていなかったため、未知の世界でした。ですからスタンプラリー目当てで乗車した在来線の旅は、柏崎を越えたあたりでわくわくが大きく増し始めたのです。


「もうすぐ鯨波(くじらなみ)っていう駅につくんだけど、そこの海岸はとてもきれいなのよ。ママ、鯨波の海なら入ってもいいかなぁ」と母が言いました。
私の母は海は汚いから嫌いだし、極度の汗っかきのため夏も大嫌いという人ですから、海水浴となると決まって父、兄、弟そして私の4人だけで出かけたものでした。そのくらい海には近づきたがらない母が「入ってもいい」という海の美しさを一目見たかったのですが、いざ鯨波駅につくとスタンプを押してもらって兄弟三人でわいわいお喋りするのが楽しく、鯨波駅から海が見えたかどうかすら覚えていません。

 

そして鯨波を過ぎてしばらくすると「次は土底浜(どそこはま)」というアナウンスが聴こえてきて、弟が「どそこはまだってー!」と笑いだし、私も兄もつられて笑いだし、今思えば土底浜の語感のどこがそんなに面白いか不思議でしようがないのですが、子供時代とはそんなものでしょう。
そうやってくだらないことで笑いあう子供達に母はまったく無関心で、ぼうっと窓の外を見て嬉しそうにしていました。すぐ隣に座っているのに、別の世界にいるみたいでした。それは幼い私にもよくわかり、「ママはきっと一人でこうやって電車に揺られて知らないところに行ってしまいたいのだろうな」とまだ子供だった私にすら思わせるようなところがありました。彼女は自分が嫁いだあの家からしばらく離れることができるのなら、どこでもよかったのだろうなと私がようやく理解できるようになったのは、社会人になったころだったでしょうか。

 

Shishigahana, Niigata

帰り、私は海を見たくなって、長岡周りの電車に乗った。直江津から柿崎を通り米山まで、電車は迫る日本海を左手に、右の崖にへばりつくように走る。窓の外の、ひたすら静かな夏の日本海に線香花火のような夕日がゆっくりと沈んでいく。

冒頭部分にふれた書籍の一節です。新潟県を舞台にした小説と言えば川端康成の「雪国」が有名ですが、私はあの作品中のどんな描写よりもこのエッセイのこの数行のほうが心に染み入りました。
若さという輝きがなかったら浜に打ち上げられた干物にしか見えない、焼死体の一歩手前みたいなギャルが似合わない日本海の夏。
書籍についてはまた別の記事で紹介します。

関連記事:乗りたいな、と思ったらなくなっていた思い出の特急 - マリア様はお見通し



Wendi Deng Murdoch(7)それほど長く続いたとは思えない二人の蜜月

SoHoにある約864平方メートルの三階建ての豪邸を改装していたため、仮の住まいである愛の巣はMercer Hotelのスイート。それがウェンディとルパートの新婚生活の始まりでした。

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画像はWendi Deng Murdoch's MySpace Problemからお借りしました

ウェンディ色に染まったルパート

新婚当初、「ルパートそのものがウェンディの仕事」とまで言われました。ルパートを幸せにすることが彼女の幸せ。ルパートの最大の味方だったのです。彼女がルパートに対してどれほど影響を与えていたかは、見た目の変貌だけからでもよくわかったといわれます。彼が白髪を染めたり、今まで外出する際はスーツ一辺倒だったワードローブも、ジーンズにタートルネックをあわせて、スニーカーをはくようにもなりました。
またルパートが中国出張に行けば、まず現地の支社の幹部の女性をプライベートジェットに呼び出して、ウェンディから預かったお買い物リストを渡すのです。そこに書かれているものは、世界屈指の国際都市のひとつ、ニューヨークですら手に入らない中国のものばかりでした。美肌効果があるといわれているスープを作るための鳥の巣、キャンディ、薬、そしてちょっとした食べ物。

大富豪であるルパートにここまでさせてしまうウェンディはたいしたものですが、二人の蜜月はそう長くは続いたとは思えません。

ウォールストリートジャーナルに暴露記事が掲載される

1999年に結婚した二人ですが、なんと翌年には自分の学生ビザのスポンサーになってくれたCherry夫妻とその一家を破滅させたウェンディの過去がウォールストリートジャーナルに載ってしまいました。

◆この過去について詳しく書いた記事:Wendi Deng Murdoch(3)残酷なまでに鈍いからこそ辿り着けた場所 - マリア様はお見通し

ルパートとウェンディは圧力をかけてこの記事をなんとかもみ消そうとしたにも関わらず掲載されて、ウェンディはこの記事が出るにあたり相当動揺したそうです。

その上海ガール達から見たらWendiさんは羨望の的です。2011年にBritish Vogueの取材を受けたWendiさんは、自分がCherry家にしたことについてたずねられた際、すべての質問に"Yep."のひとことで答えたそうです。
British Vogueとしては、絶大な権力を持つメディア王のRupert Murdoch氏の妻であるWendiさんに、黒歴史についてインタビューするのは彼女の急所を突くようなものだから、聞きにくさはあったでしょう。だけどWendiさんは黒歴史だとは思っていないのではないでしょうか。とことんドライなんじゃないかな。

(過去記事より抜粋)

2011年にはもうこのようにすっかり開き直っていたウェンディですが、新婚時代ともなると、いくらウェンディとはいえ自分が過去にしたことがルパートにこのような形でばれてしまい、当時ちょうど体外受精を受けていたウェンディにとってかなりダメージは大きかったと思います。
この記事の内容程度のことは、てっきり結婚前にバックグラウンドチェックをしっかりやっていて把握したうえでルパートは結婚したのだろうな、と私は思っていたのですが、なんとマードック一族は知らなかったそうです。そこでこんな暴露記事が出てしまったわけですが、ルパートと息子達は「疑わしきは罰せず」ということでそれ以上追及することはありませんでした。
疑わしき・・・ということは、ウェンディはルパートが最初追求した際否定したということですから、彼女にも否定する程度には羞恥心や罪悪感というものは備わっていて、赤い血が流れているのだなと思いました。
この女性なら僕の優秀な右腕として活躍してくれて一緒に攻めていける!と結婚を急いだルパートですが、もしかすると既にこの結婚翌年の暴露記事で「とんでもない女と結婚してしまったのかもしれないな・・・」と覚悟はできていたのかもしれません。

徐々に本性と欲を出し始めたウェンディ

結婚するまでと新婚時代は「優しい中国人女性」という分厚い猫をかぶっていたウェンディ。子供もいらないと言っていたのです。ルパートは結婚当時既に子供を作るには高齢であったし、ウェンディが子供を作りたがればルパートの遺産争いが泥沼になるのは必至でしたから、自分が欲しいもの=富豪の妻の座を手に入れるまでは控えめにしていたのでしょう。
ところがいざ結婚すると徐々に自分の要求をはっきりと主張するようになったのです。
「子供がほしい」
賢い彼女のことですから、急にあつかましく声を上げ始めたわけではなく、それなりに時間をかけて交渉に持ち込んできました。そして子供ができると、今度はルパートの他の子供達と同等の権利を自分との子供にも与えるように主張するのです。そのため長女グレース、そして次女クロエが産まれたそれぞれの年の翌年に、Post-nuptial agreement(婚前ならぬ婚後?契約書)が交わされています。2002年、2004年の計二回。守るべき財産が大きすぎるルパートが守りに入った証拠です。

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2006年、明らかにウェンディに事前に知らせることなくマードックは:

  1. GraceとChloeは信託として平等な株を受け取るが、株主として議決権は持たないと発表
  2. その後6人の子供すべてに1億5千万ドル(2019年12月現在のレートで約160億)を現金で贈与

しました。また当シリーズの引用元のコラムの筆者であるMark SealはGraceとChloeがそれぞれ30歳になる際にはvoting shares(議決権株式とでも訳しましょうか)が信託によって与えられることになると聞いているそうです。

一方、ウェンディという強力なサポーターを手に入れれば、中国を足掛かりにフィリピン、東南アジア、インド、そして中東のTV放送市場も手に入れられるという野望で盲目になっていたルパートとは違い、前妻のアナはしっかりとしていました。

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アナの内助の功はルパートが財産を築き上げていくうえで欠かせない存在でしたから、彼の莫大な財産をしっかり半分まきあげて離婚することもできたのに、彼女は二、三百億円の慰謝料を受け取り、自分の息子達をマードック帝国の相続人にすることを正式に記すという条件のみで離婚したのです。いずれウェンディが子供を欲しいと言い出すことなど簡単に予想できたからこそ、息子達の権利を守っておきたかったのでしょう。

中国人の賢妻は秘密兵器になれなかった 中国共産党の高い壁

Old vs New China

ルパートがウェンディに惚れ込んだのは、公私ともに強力なパートナーになってくれたから。ITに疎いルパートのために彼の業務時間外のeメールをさばき、News Corp.社が未来を見て変わっていかなくてはならない部分に力を入れ、二人三脚による駆け出しはなかなかスムーズに行ったでしょう。だけど実は彼女が舵取りをした肝心な中国での計画はそれほどうまくいきませんでした。
ルパートが所有するStarTVが西側メディアを歓迎しない中国市場に参入していくにあたり、力強い後ろ盾になってもらおうと、ウェンディは有力者達の子息にとり入ってみたりするのですが逆効果になったり、あるいはかつて勢いのあったSNSである"MySpace"のチャイナ版も、彼女が中心になって売り込んでいく予定だったのに、結局MySpaceの創始者の一人であるChris DeWolfeとの不倫関係が噂になっただけで肝心な戦略はうまくいかなかったりと、この結婚でメリットがあったのはウェンディだけなのでは・・・・?とすら思えてきます。

 そしてマードックという苗字と目もくらむような単位の金、マードックの人脈を手に入れたウェンディが、この結婚生活の中でそれらをどのように利用して、夫との間に溝ができていくのかはシリーズ(8)で書きたいと思います。

Wendi Deng Murdoch(1)彼女がこんなにも気になる理由 - マリア様はお見通し

 Wendi Deng Murdoch(2)大都市・広州で動き出した運命 - マリア様はお見通し

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Wendi Deng Murdoch(4)不美人がブロークンイングリッシュでオーストラリア人の幹部達をどうやって魅了したのか - マリア様はお見通し

Wendi Deng Murdoch(5)名刺も肩書ももう要らない。最強の苗字を手に入れるまで - マリア様はお見通し

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